スキップしてメイン コンテンツに移動

ジャスパー・ジョーンズへのインタビュー記事 考察編


自分の思う普通の懐中電灯が見つからなかったことで、当たり前とは何なのかをジャスパー・ジョーンズは考え始めました。普遍的・従来的であると自分が思い込んでいるもの、身の周りの目に留めるほどでもないようなこと、そういったものを新しい目で見直す事は、自分自身の歴史、そこから生まれた唯一無二である自分の心・思想を見つめることに繋がるのだと、ジョーンズは思ったのだと思います。何が自分を育てたか、何を見て何を感じそれは何から与えられたものなのか、そういった一つ一つがかけがえのない人生を歩む自分自身を作り上げているのだと。そして、それは自分にとってはいとも当たり前として、生活の中に溶け込んでいる。

それではジョーンズの言う「声明からの回避」とは、なんでしょうか。戦争反対!とか、自然を愛そう!とか、一人一人の一つ一つの思いは素晴らしいものですが、それを押し付けられた友だちの気持ちはどうでしょうか。ましてや赤の他人の いち アーティストに一方的に主張され、心に響くものでしょうか。違う歴史を持った他人同士が自分だけの当たり前を押し付けあって、わかりあうことなどできるのでしょうか。

ジョーンズは生活の中の当たり前を観察することで、自分でない人の気持ちは自分のものと同じくらい大事で、かけがえのないもので、尊重されるべきだと思い始めたのではないでしょうか。違ったものだとしても、同じように歴史を積み重ねた他人、同じようにその人の歴史が今のその人を作り上げたのだから。アート作品において、自分の声明を述べることで、せっかくそれを見てくれた人たちに対して自分のエゴを見せつけるだけのつまらないものに成り下がってしまう。無限であるべきアートの可能性を酷く狭めてしまう。

いち アーティストとして いち 赤の他人として精一杯できる事、それはとても小さなことです。それでも社会の中で役に立つことができれば、何か自分のできることに命を注ぎ込み励むことで、見も知らない誰かの生活に少しでも光をもたらす手助けができれば。そういった気持ちでジョーンズは作品を作ったのではないでしょうか。

インタビュー記事の翻訳はこちら
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7(最後)

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ

コメント

このブログの人気の投稿

ピエール・レスタニーのニュー・リアリズム(ヌーヴォー・レアリスム)宣言 翻訳

1960年4月16日Nouveau Réalisme(ニュー・リアリズム/ヌーヴォー・レアリスム)宣言はピエール・レスタニー他9人のアーティストによってフランスにて発行されました。その9人の中にはIKB(International Klein Blue-クラインが作った青系の色の名前)のイヴ・クラインや、ゴミを集めて透明な箱につめた作品で有名なアルマンが含まれます。この宣言で、Art and Life が誕生します。(*訳者注のカッコ内は私の勝手な解釈なので、参考程度に思って頂いた方が良いと思います。 次の投稿 で私なりの解釈を投稿したいと思います。 Pierre Restany, "First Manifesto of Nouveau Réalisme ,"日本語訳 アートの歴史の急なる進化や、モダンライフの無秩序なる異常なパワーを恐れた聡明な学術者や紳士達が、その手で時計の針を戻し、太陽や時間の行進を止めることに躍起になっていることは、虚しいだけである。 我々はすでに確立され終えた単語や言葉やスタイルの、消耗と骨化(*訳者注:新鮮さを失った状態)の目撃者である。伝統的手段の-使い古されたことによる-欠落により、未だ独自の主導権は互いに立ちはだかるヨーロッパやアメリカに散在し、それでいながら研究の範囲に関わりなく、新たな表現力の規範的な基礎を定義する傾向を持っている(*訳者注:古く無価値でありながら野放図で排他的な定義を生む種としてだけの存在である、といった意味だと思います)。 油絵やインコスティック(*訳者注:蝋の様な絵の具を熱を使って描く昔の画法)には付け加えの方法は何もない(*訳者注:それらの画法はすでに完成されたスタイルを持っている。)イーゼルでのペインティング-絵画や彫刻等の領域における唯一無二の古典的な意味での表現-の時代は過ぎたのである。長期に渡る独占はその最期を迎えている-未だ時に高尚であるが-。 それでは、何を代わりに提案すれば良いだろうか。概念の反射や、空想の書き写しではなく、現実の知覚を熱心に探求することそのものである。その手掛りは何であるか。コミュニケーションの本質部分の社会学(*訳者注:現実の人間社会の研究)的延長を導入することである。社会学は救済するであろう。それが選択のレベルであろう

ピエール・レスタニーのニュー・リアリズム(ヌーヴォー・レアリスム)宣言 考察編

ヌーヴォー・レアリスム(ニュー・リアリズム)はダダの40度上を行くことを宣言しました。ダダイスト達の思想は既成の、特に伝統的な思い込みを打破する事が目的でした。ルール、考え方、美観やアートの歴史などの、すでに完成された方法を壊そうとしたのです。 (宣言の翻訳はこちら) ダダイズムの背景には第一世界大戦への反戦の思想や、その頃のブルジョワジーへの呆れがあります。これらは、押し付けられることに反抗すること、自分の思想を貫く気持ちが、世界をも変えてしまえる力を持つことを証明していると思います。 ダダのアーティスト達の思想はアートの世界を(アートの社会での役割や、アーティストの心得など)がらりと変えました。その中で最も重要とも言える思想を打ち出したのが、マルセル・デュシャンです。 既成概念を壊しにかかろうとする姿勢は、ヌーヴォーレアリストたちに強く引き継がれています。しかし、そのダダの40度上を行くとはどういう意味でしょうか。私が思うには、ダダのアーティスト達は反戦・反ブルジョワジーを強く意識しすぎて、ヌーヴォーレアリスト達には力みすぎているように見えたんじゃないでしょうか。力みすぎずに周りを見渡すことで、さらに新しい意味合いを見つけることができる。自然にそこにある物に目をやる余裕が必要なのじゃないかと、提案したんではないでしょうか。 生活の中にアートを見つける。元々アートなんていうものは、生活の中から生まれるものなんだ。その生まれる瞬間を見過ごさずに、それを意識して生活をおくれば、同じ生活でも、光り輝くものに変わるだろう。素晴らしい気付きだと思います。生活のためのアート。社会のためのアート。新しいことに気付くためのアート。 私はこの気付きが世界の全ての人に起これば、社会はがらりと変わると信じています。ダダがアートのためのアートだとすれば、ヌーヴォー・レアリスムは社会のためのアートである。だからこそヌーヴォー・レアリスムはダダの40度上のアートなんだと思います。

ジャスパー・ジョーンズへのインタビュー記事 その2

前回 (その1) の続きです。 DSはインタビュアーの David Sylvester、JJはJasper Johnsです。 (※訳者注のカッコ内は私の勝手な解釈なので、参考程度に思って頂いた方が良いと思います。) I will attempt to do something which seems quite uncalled-for in the painting, so that the work won't proceed so logically from where it is, but will go somewhere else. DS:あなたが望んだ懐中電灯は特別でなく理想的な懐中電灯であり、ある種の普遍的な懐中電灯だったというわけですね。 JJ:  :そうです、実際に選択はとても個人的なものであり、自分の観察には全くもとづいていなかったのです。 DS :言うまでもなく、新しい動き(※訳者注:作品を見る人の心の動き)はキャンバス上にあるものによって決められるわけですが(※訳者注:芸術作品-この場合には絵画の作品-は概してそういうものである)、 他にどんな要素によって決定されるのですか。 JJ :キャンバス上に無いものによってです。 DS :しかし、キャンバスに乗り得るものとは非常にたくさんの可能性があるわけですが。(※訳者注:キャンバス上に無いもの、と行ったジョーンズに対し、キャンバスに乗らないものなどないのでは?といった質問) JJ :そうですね。しかし人間は考えるプロセスにおいて(意図的であろうがなかろうが)多くの可能性を排除してもいます。そして、見るというプロセスにおいても多くの可能性を排除します。なぜなら、時々により私たちは何かを見るときに見るものだけを見ているものであり(※訳者注:見たいものだけを見る選択をしている)、次の瞬間にはもう違うように見えることもあるからです。ですから、すべての可能性を見ることのできる人などいないのです。そして、進歩するたびに進歩し、何かするたびに何か違うことをするのです。 DS :しかし、あなたがキャンバスに描くものは自動的に出てきたものではないでしょう(※訳者注:何か意図があってそのモチーフを選んでいるのでしょう、といった質問) JJ :どうやって、