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ジャスパー・ジョーンズへのインタビュー記事 その6

その6です。ここからジャスパー・ジョーンズはインタビュアーのデビッド・シルベスターの質問に答えることを拒み始めます。それは彼のアートへ対する思いが現れたものです。
前回(その5)

DSはインタビュアーのDavid Sylvester、JJはJasper Johnsです。(※訳者注のカッコ内は私の勝手な解釈なので、参考程度に思って頂いた方が良いと思います。)




Perhaps, but I wouldn't want to push that idea.
the statements one makes about finished work are different from the statements one can make about the experience of making it. 

DS:絵が作り得る示唆とは別に、絵の全体的な性質が他の何かへ一般的な論及をもたらすことを意識していますか。具体的には絵はあなたの感覚の特性の具現化という側面もあると思いますか。絵の中にあるものと、あなたの自分自身の中にあるものとはどう関係しますか。

JJ:常に見るものがあることと、どこを見ても何かが見えること、という関係です。

DS:あなた自身を見る事と、絵を見る事の違いは何ですか?

JJ:そこに違いがないことが一番良いです。

DS:ということは、絵はあなた自身を見る時の感覚の結晶または閉じ込めであるということですか。

JJ:おそらく、そうでしょう。しかし、その考えを強要したくはないですね。人は芸術作品を見る事と芸術作品ではないものを見る事の間に違いはないと思うのが好きなのではないでしょうか。きっとそこに違いはあると思うのですが、何かはわかりません。おそらく芸術作品は、より指向的な見方が含まれますが、作品に直面してその感覚を覚えないこともあるので、それも疑わしいものです。

DS:もちろん、絵の存在の仕方は現実の存在の仕方とは異なる。だから、キャンバスと絵の具に命を吹き込み、絵を見る感覚を現実を見る感覚に似せる、と言いうことでしょうか。

JJ:まあ、おそらく私はそう言ったのだと思います。絵は一般的な経験から切り離された言語であると(※訳者注:英語や日本語といったような言語とは違う成り立ちを持つ言語-コミュニケーションツール-である)。しかし、その考えは強調したくはありません。 ある程度はそうであるとは思いますが、あまり強く考えすぎてはいけないと思います。

DS:しかし絵は刻印を残した結果である以上のなにかであり、時にあなたを満足させる、秩序の到着点ではないのですか。 

JJ:そうでなければ、それは何の結果であるのでしょうか。

DS:えーと、そうですね、それで間違いはないでしょう。しかし、それだけなのでしょうか。

JJ:それは全てあなたが言いたいことで、全てはあなたがそうであると言ったことです。しかし、それを使ってください。それも間違ってはいないですから。絵を見ることは、絵の具を使うこと、絵を実在するものとして捉えることを含むと思います。そして、人はそれをアーティストが意図したものであると考える傾向にあると思います。私にはそれが本当にそうなのかはわかりません。人は自分が作るものを作り、そして自分が見ているものを見るのです。絵は前もって作られるものではないと思います。それは作られながら形作られ、そして、何にでもなることができる。それはとても人生に似ています。例えば10年間、その人生の10年の期間が終わるころには、始めに意図したものとはまったく異なるものになる可能性があります。つまり、自分が思っていたことができず、自分が思っていたよりもはるかに多くのことをするのです。しかし、それだけの時間を費やしたなら、その経験について発言(声明)をすることができるでしょう。しかし、それは時間費やした経験とは異なります。そして、絵を見る経験は、絵を計画することや絵を描く経験とは異なると思います。そして、完成した作業についての発言(声明)は、作成した経験についての発言(声明)とは異なると思います。(※訳者注:そうだから、インタビュアーの質問には答えられないといった意味ではないでしょうか。)

その7(最後)へつづく…

-References-
-引用元-

Harrison, Charles. Wood, Paul.(2003). Jasper Johns (b. 1930) Interview with David Sylvester. Art in theory, 1900-2000:an anthology of changing ideas. 2nd ed. Blackwell Publishing, p.741

Johns, Jasper.(1967–68).Ale Cans, plate three from 1st Etchings. The Art Institute of Chicago

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