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ピエール・レスタニーのニュー・リアリズム(ヌーヴォー・レアリスム)宣言 考察編


ヌーヴォー・レアリスム(ニュー・リアリズム)はダダの40度上を行くことを宣言しました。ダダイスト達の思想は既成の、特に伝統的な思い込みを打破する事が目的でした。ルール、考え方、美観やアートの歴史などの、すでに完成された方法を壊そうとしたのです。(宣言の翻訳はこちら)

ダダイズムの背景には第一世界大戦への反戦の思想や、その頃のブルジョワジーへの呆れがあります。これらは、押し付けられることに反抗すること、自分の思想を貫く気持ちが、世界をも変えてしまえる力を持つことを証明していると思います。


ダダのアーティスト達の思想はアートの世界を(アートの社会での役割や、アーティストの心得など)がらりと変えました。その中で最も重要とも言える思想を打ち出したのが、マルセル・デュシャンです。


既成概念を壊しにかかろうとする姿勢は、ヌーヴォーレアリストたちに強く引き継がれています。しかし、そのダダの40度上を行くとはどういう意味でしょうか。私が思うには、ダダのアーティスト達は反戦・反ブルジョワジーを強く意識しすぎて、ヌーヴォーレアリスト達には力みすぎているように見えたんじゃないでしょうか。力みすぎずに周りを見渡すことで、さらに新しい意味合いを見つけることができる。自然にそこにある物に目をやる余裕が必要なのじゃないかと、提案したんではないでしょうか。


生活の中にアートを見つける。元々アートなんていうものは、生活の中から生まれるものなんだ。その生まれる瞬間を見過ごさずに、それを意識して生活をおくれば、同じ生活でも、光り輝くものに変わるだろう。素晴らしい気付きだと思います。生活のためのアート。社会のためのアート。新しいことに気付くためのアート。


私はこの気付きが世界の全ての人に起これば、社会はがらりと変わると信じています。ダダがアートのためのアートだとすれば、ヌーヴォー・レアリスムは社会のためのアートである。だからこそヌーヴォー・レアリスムはダダの40度上のアートなんだと思います。


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ピエール・レスタニーのニュー・リアリズム(ヌーヴォー・レアリスム)宣言 翻訳

1960年4月16日Nouveau Réalisme(ニュー・リアリズム/ヌーヴォー・レアリスム)宣言はピエール・レスタニー他9人のアーティストによってフランスにて発行されました。その9人の中にはIKB(International Klein Blue-クラインが作った青系の色の名前)のイヴ・クラインや、ゴミを集めて透明な箱につめた作品で有名なアルマンが含まれます。この宣言で、Art and Life が誕生します。(*訳者注のカッコ内は私の勝手な解釈なので、参考程度に思って頂いた方が良いと思います。 次の投稿 で私なりの解釈を投稿したいと思います。 Pierre Restany, "First Manifesto of Nouveau Réalisme ,"日本語訳 アートの歴史の急なる進化や、モダンライフの無秩序なる異常なパワーを恐れた聡明な学術者や紳士達が、その手で時計の針を戻し、太陽や時間の行進を止めることに躍起になっていることは、虚しいだけである。 我々はすでに確立され終えた単語や言葉やスタイルの、消耗と骨化(*訳者注:新鮮さを失った状態)の目撃者である。伝統的手段の-使い古されたことによる-欠落により、未だ独自の主導権は互いに立ちはだかるヨーロッパやアメリカに散在し、それでいながら研究の範囲に関わりなく、新たな表現力の規範的な基礎を定義する傾向を持っている(*訳者注:古く無価値でありながら野放図で排他的な定義を生む種としてだけの存在である、といった意味だと思います)。 油絵やインコスティック(*訳者注:蝋の様な絵の具を熱を使って描く昔の画法)には付け加えの方法は何もない(*訳者注:それらの画法はすでに完成されたスタイルを持っている。)イーゼルでのペインティング-絵画や彫刻等の領域における唯一無二の古典的な意味での表現-の時代は過ぎたのである。長期に渡る独占はその最期を迎えている-未だ時に高尚であるが-。 それでは、何を代わりに提案すれば良いだろうか。概念の反射や、空想の書き写しではなく、現実の知覚を熱心に探求することそのものである。その手掛りは何であるか。コミュニケーションの本質部分の社会学(*訳者注:現実の人間社会の研究)的延長を導入することである。社会学は救済するであろう。それが選択のレベルであろう

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